Article: 祖父の戦争体験記
祖父の戦争体験記
終戦記念日に寄せて掲載しようと思っていたのですが、夏休みがなかなか時間が取れず、今になりました。
今年で創業76年を迎える弊社工場を興した祖父の話です。
生前に叔父たちが話をまとめてくれたもので、終戦後帰国した祖父は、法政大学政治経済学部を卒業後、靴下工場を立ち上げています。
生死を彷徨う体験を何度も何度もしている祖父が生きていてくれたこと、全てに感謝して掲載します。
昭和17年
赤紙召集(近隣の2~3人と一緒に出征)
11月頃 伊勢崎市の自宅より出征
12月1日 千葉県柏の第4航空教育隊に入隊
軍隊の基礎を学ぶ 二等兵
自動車の教習 1年入隊予定
半年後:一等兵
昭和18年4月
広島から、陸軍2,000tの貨物船で、潜水艦を回避しながら航行。
船で1週間で、香港(1週間滞在)
↓
台湾の高雄(3カ月滞在)
↓
昭和18年6月
フィリピン上陸、ルソン島のマニラ
上等兵となる
半年滞在
↓
マニラから100kmのリパ → マニラ
兵長となる
船待ちで3カ月滞在
↓
ネグロス島へ
マンゴーを採って食べる。
木下に陸軍の飛行機4~5機隠していた。
昭和19年7月
ネグロス島(3番目に大きい島)に上陸
最大の都市バコロドに居住。
食料はまだ足りていた。
飛行場設置部隊(32飛行場中隊)の一員として飛行場を作る。
(実際にはほとんど完成していた)
水野清(中隊長:少尉)隊60名の一員
日本の戦闘機:疾風が14機あり
当初は熟練パイロットがいて、1日で敵機4~5機撃墜していた。
次第に1機、2機と撃ち落とされ、腕のいいパイロットはいなくなる。
1カ月くらいは何とか耐えた
→ そのうち、夜間空襲が始まる。
台湾から12~13機の応援隊が飛来した。
腕が悪くて、3機くらいは着陸がうまくいかず自爆。
着陸できた飛行機も、戦闘では逃げ回っていた。
B24重爆撃機(4発プロペラ機)が17機編隊でサイパンより飛来。
爆弾投下:兵舎は焼かれ、飛行場は穴だらけとなる。
少しすると戦争状態になる。
⇒ 山の中に逃げ込む、穴を掘ってそこで隠れて生活。
藪蚊の大群、飯ごう炊飯。
デング熱にかかり1週間高熱
→ 何とか快復
ネグロス島では、
バコロド → シライ → タリサイ → マナプラ
と滞在。
3つの飛行場を作る。
中隊の陣営部、本部長付きとして活躍。
陣営具係 ⇔ 中隊に必要な道具を扱う係:総務的な業務
昭和19年10月頃
アメリカ海軍がネグロス島に上陸。
山口大佐の部隊が米軍と戦闘。
11月3日
山(太郎山)の中に逃げる。
米軍機100機を見る(幻覚症状か?)
マナプラが最大の戦闘激戦地。
敵軍の迫撃砲5、6機による銃撃:日本兵の通る道をねらい撃ちまくる。
(迫撃砲:砲が16あり連射)
⇒ 迫撃砲を撃滅するために、隊の数人が選抜され切り込みに行く。
手榴弾5~6発持って、夜間に3人くらいで実行。
南里中尉、今井中尉は切り込みに行き帰らず。
3度、水杯をして切り込みに行く
⇒⇒ 米軍がすでに切り込みを察知して移動。
移動した証拠品を持って隊に帰る。
移動したために3度とも救われる。
夜目がきく富山県氷見出身の部下がいたため、部隊に帰ることができた。
詳しく聴くことができたのはここまででした。


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